[要旨]
京セラ創業者の稲盛さんは、ビジネスパーソンとして成功しているにもかかわらず、さらに修行僧となり、托鉢を通して善因善果のすばらしさを学んだと述べておられます。したがって、どんな立場にある人でも、さらに向上しようという姿勢を持つことは、大切です。
[本文]
京セラ創業者の稲盛和夫さんのお話で、私がずっと頭から離れないことがあります。それは、日本経済新聞に書かれていたことなのですが、稲盛さんが僧侶として托鉢をしていたときの経験です。すなわち、稲盛さんは、還暦を過ぎてからは、事業から退き、自己研鑽をしようとしていたが、昵懇にしていた、臨済宗妙心寺派円福寺の西片擔雪老師の薦めもあり、得度(出家して、僧侶の資格を得ること)をすることにした。
そして、65歳のとき、稲盛さんは得度して、円福寺の修行僧として、大接心(禅僧が昼夜を通して集中して行う修行)に参加したが、その中で、托鉢も経験した。托鉢は、信徒の家を訪ね歩き、お布施をいただく修行だが、歩いているうちに、わらじの先からはみ出した指が地面にすれて、血がにじんできた。そのかたわらで、道の落ち葉を掃除していた年配のご婦人が、稲盛さんの様子に気づき、「托鉢の修行はたいへんでしょう、これでパンを買って食べて下さい」と百円玉を差し出してくれた。
その時、稲盛さんは例えようのない至福の感に満たされ、涙が出てきそうになった、というものです。もちろん、稲盛さんは、京セラの創業者であり、お金に困っているわけではないにもかかわらず、100円のお布施を受けて幸福を感じた理由は、金額に満足したのではなく、ご婦人が何の躊躇もなく稲盛さんに喜捨しようとした、そのいたわりの心であることに間違いないでしょう。
そして、稲盛さんが、この托鉢の経験をお話した理由は、善因善果(因果応報)を伝えたいということのようであり、私も、その稲盛さんの考え方は、その通りだと思います。しかし、それだけでなく、稲盛さんのような、ビジネス界のお手本となるような方でさえ、さらに修行僧として修業をしようとすること、さらに、その修行の中で、涙が出るくらいの感動と、新たな学びがあったということに、私は驚きました。
禅宗の教えに、「百尺竿頭進一歩」(百尺の竿の頂上に達するくらい、修行を積んだ人でも、さらに、一歩進めて修行を積もうとす姿勢が大切である)というものがあると聞いたことがありますが、稲盛さんは、まさにそのような姿勢を持っている方なのだと思います。凡人の私は、なおさら研鑽を積まなければならないということを、この稲盛さんの経験を思い出しながら、常に感じています。