鄙のビジネス書作家のブログ

鄙で暮らす経営コンサルタント(中小企業診断士)・ビジネス書作家六角明雄の感じたことを書いているブログ

命令では人の心を動かすことはできない

[要旨]

ジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人元社長の新将命さんによれば、会社からマネジャーという肩書をもらったとたん、自分が偉くなったと思い込む人が多い一方で、「人は論理によって説得され、感情によって動く」ので、命令で人の身体を動かすことはできても、人の心を動かすことはできないことから、マネジャーの立場になったら、与えられた権力だけでは不十分であることをまず認識し、権力を支える人間力というプラットフォームを築くことが求められるということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、ジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人元社長の新将命さんのご著書、「伝説のプロ経営者が教える30歳からのリーダーの教科書」を読んで、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、新さんによれば、リーダーとは、管理職という地位に就くことで自動的になれるわけではなく、その人が持つ実力、人間力、権威によって決まるものであることから、真のリーダーになるためには、内面的な魅力を高めるようにしなければならないということについて説明しました。

これに続いて、新さんは、肩書きをもらうと自分が偉くなったと思い込む人がいるので注意が必要ということについて述べておられます。「会社は階級組織だから、組織の定めるポジションには相応の人事権、命令権がついてくる。それが『権力』である。命令権は作業レベルの業務では機能するが、チームを1つの方向にまとめたり、メンバー1人ひとりを鼓舞するような場面では、限りなく無力に近い。命令では人の身体を動かすことはできても、人の心を動かすことはできない。『人は論理によって説得され、感情によって動く』(カーネル・サンダース)からである。

ところが、マネジャーという肩書をもらったとたん、自分が偉くなったと思い込む人が多い。肩書は階級章だから、軍隊由来の組織形態をとる企業では、肩書きに課題なイメージを持たせているせいだろう。立場が人をつくるというのは、一面の事実ではあるものの、マネジャーの地位に就いた瞬間に、『自分はリーダーである』と勘違いする、人間力の劣悪な上司の後ろを、部下が納得してついて行くことはないという、厳しい事実を肝に銘じておくべきである。マネジャーの立場になったら、与えられた権力だけでは不十分であることをまず認識し、権力を支える人間力というプラットフォームを築くことが求められるのだ。

ちなみに、純粋な階級社会でもある軍隊でも、すべてが権力だけで動くわけではない。『義経軍歌』(武道の要諦について、源義経の活躍に仮託して詠まれた室町時代の歌集)には、『大将は人によく声をかけよ』とある。いざというときに兵が動いてくれるか否かは、大将が日頃どれだけ兵をインスパイア(鼓舞)しているかによって決まるのだ。マネジャーとしての地位(ポジション)は会社が決めるものだが、リーダーとしての資格は自分が勝ち得るものである」(30ページ)

日本では、残念なことに、新さんがご指摘しておられるように、「マネジャーという肩書をもらったとたん、自分が偉くなったと思い込む人が多い」ということを私も感じていますが、これは、まず、本人の自覚の問題だと思います。しかし、そのような人を昇進をさせる会社も、論功行賞として人事を行っている面があると思います。ところが、「名選手、名監督にあらず」という言葉もあるように、事業の現場で顕著な実力を発揮できる人が、管理業務でも高い能力を発揮できるとは限りません。

したがって、会社は、将来の幹部候補に対して、マネジメント能力を身に付けさせたり、事業の現場では実力が発揮できていなくても、マネジメント能力の高い従業員を見い出して管理業務を行わせるなどの対応に注力することが求められます。ここで、事業の現場で実力を発揮した人をどのように報いるのかという課題や、そのような人と管理業務を行う人との関係をどうするのかという課題があるのも事実です。

しかし、現在は、商品や製品そのものでの差別化が難しくなっており、組織力で業績の差が出る時代です。そうであれば、マネジメント能力を持つ従業員が多い会社の方が業績が高くなるということに間違いはないと思います。現在の日本では、まだ、過去からの慣行で、事業の現場で実力を発揮した人に管理業務を任せるという制度が残っている会社は多いと思いますが、管理業務を任せる従業員には、しっかりと管理業務を担う能力を身に付けてもらってから任せるという方向に人材方針を変える必要があると、私は考えています。

2024/10/13 No.2860

 

リーダーの条件はフォロワーがいること

[要旨]

ジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人元社長の新将命さんによれば、リーダーとは、管理職という地位に就くことで自動的になれるわけではなく、その人が持つ実力、人間力、権威によって決まるものであることから、真のリーダーになるためには、内面的な魅力を高めるようにしなければならないということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、ジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人元社長の新将命さんのご著書、「伝説のプロ経営者が教える30歳からのリーダーの教科書」を読んで、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、新さんによれば、会社経営者の中には、ついつい、慢心してしまい、自分をエライ人間だと思い込んでしまう人もいますが、その結果、その思い込みが倣慢にまで増幅してしまうと、業績に悪い影響を与えることになるので、それを防ぐには、第三者の批評に謙虚に積極的に耳を傾けることを心がけなければならないということについて説明しました。

これに続いて、新さんは、リーダーは会社ではなく、部下が決めるものであるということについて述べておられます。「リーダーとはリードする人、人を導く人である。人を導くには、後ろから喜んでついて来るフォロワーがいなければリードできない。振り返ると誰もいない、そこにはただ風が吹いているだけではリーダーとはいえない。リーダーになるための一丁目一番地は、フォロワーがいるということである。人を導くといっても、人が渋々ついて来るようでは、本当のリーダーではない。

リーダーの後について来るフォロワーは、ただのフォロワーではなく、喜んでついて来る、“Willing Follower”(ウィリング・フォロワー)である。ウィリング・フォロワーとは、『あの人のためなら……』、『あの人がそう言うのなら……』と、リーダーの持つ実力や実績、人間力、人格に感じて、心から信頼し、心服してついて来る人のことをいう。つまり、リーダーとは、地位や肩書といった『権力』というハードパワーで決まるのではなく、その人が持つ実力、人間力、その人の持つ『権威』というソフトパワーによって決まるものである。

権威には、『あたりの塵(ちり)を払うような厳(おごそ)かさ』はあるが、明文化されるような資格や条件はない。人の実力や人間力がリーダーたり得るかの評価は、フォロワー次第ということになる。したがって、管理職という地位に就いたからといって、自動的に本物のリーダーになれるわけではない。フォロワーが認めて初めてリーダーという名に値するのだ。私の初めての部下も、私をリーダーと認めるまでには、4~5か月を要した」(28ページ)

新さんの、「リーダーは、その人が持つ実力、人間力、その人の持つ『権威』というソフトパワーによって決まるものである」というご指摘は、いわゆる「権威受容説」と考えられます。権威受容説とは、組織論の大家であるバーナードが、主著、「経営者の役割」の中で述べています。バーナードによれば、「権威とは、公式組織における伝達(命令)の性格であって、それによって、組織の貢献者、ないし、『構成員』が、伝達を、自己の貢献する行為を支配するものとして、すなわち、組織に関してその人がなすこと、あるいは、なすべからざることを支配し、あるいは決定するものとして、受容する」(同書170ページ)ものです。

もう少し説明を加えると、バーナードは、権威が受容される条件として、「(1)伝達を理解でき、また、実際に理解すること、(2)意思決定に当たり、伝達が組織目的と矛盾しないと信じること、(3)意思決定に当たり、伝達が自己の個人的利害と両立しうると信ずること、(4)その人は精神的にも肉体的にも伝達に従いうること」(同書173ページ)を挙げ、これらが同時に満足されているときに権威が受容されると述べています。

ここまでの説明は理屈っぽくなったのですが、経営者や幹部がどれだけ立派な肩書をもっても、部下がそれを理解したり、受け入れたり、納得したりしなければ、上司の「権威」を認める余地がないということはご理解いただけると思います。とはいえ、起業家の方の中には、「社長」という肩書を手に入れるために会社を設立したものの、事業活動を始めたら、自分だけが懸命に働いても、振り返ると、部下がついて来ないという状態になっている会社も少なくありません。

これは、バーナードのいう条件のうち、(3)の部下の利害に一致すると感じられなかったり、(4)の部下が上司の指示に従うことができると感じられないことなどが要因だと思います。従って、経営者の方は、自分だけが目標に向かって活動すればよいということではなく、経営者の指示に従うことは自分にとってもメリットがあると理解できるよう促したり、指示通りに活動することは難しくなく容易に実践できると感じられるようになるまで能力を高めたりする役割があります。

もちろん、そうなるためには、リーダーが人間的に好かれるようになることは、言及するまでもありません。ただ、部下に好かれるようになるというのは、経営者にとって最も難しい課題なのかもしれません。新さんも、「私の初めての部下も、私をリーダーと認めるまでには、4~5か月を要した」と述べておられます。そして、これは、私自身も最も欠けている資質であると感じているので、引き続き、精進しなければならないと考えています。

2024/10/12 No.2859

 

耳は大きく開き口は言葉少なく控えめに

[要旨]

シェル石油日本コカ・コーラなどで要職をお務めになられた新将命さんによれば、会社経営者の中には、ついつい、慢心してしまい、自分をエライ人間だと思い込んでしまう人もいますが、その結果、その思い込みが倣慢にまで増幅してしまうと、業績に悪い影響を与えることになるので、それを防ぐには、第三者の批評に謙虚に積極的に耳を傾けることを心がけなければならないということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、ジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人元社長の新将命さんのご著書、「伝説のプロ経営者が教える30歳からのリーダーの教科書」を読んで、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、新さんによれば、人は自分で自分を評価するときには2割以上のインフレで、他人を評価するときには2割以上のデフレで評価すると言われており、2割増しの自己評価は思い上がりという勘違いを生み、自分が思うほどには評価されていない現実とのギャップに悩むことになるので、自分の能力は自分ではなく他人が決めるものと考えることが望ましいということについて説明しました。

これに続いて、新さんは、慢心してしまうことを防ぐために、他人の評価に真摯に耳を傾けることが大切ということについて述べておられます。「自分で自分をエライという人間に偉い人はいない。自分で自分をエライと自画自賛する人は、他人は誰も自分を認めてくれないと告白しているお粗末人間に過ぎない。しかし、自分で自分をエライと思っているうちに、本当に自分はエライと思い込んでしまうのが人間の悲しい性せある。

この思い込みによる自信という効果は、正しい使い方をすれば、本人にも周囲にもよい結果をもたらすが、自信が過信や慢心、さらには倣慢へと増幅すれば、最後には破綻という悪しき結果を招くことになりかねない。(中略)では、人生を誤りかねない過信・慢心・倣慢という心の罠からはどうすれば免れることができるのか。先述したように自己評価するときは2割引で、他人を評価するときは2割増しでやればよいのだが、それがなかなかできないのも残念な現実である。

だが、できることもある。最も手軽で効果的な方法は、第三者の批評に、謙虚に積極的に耳を傾ける(Active Listening)ことに尽きる。多くの人は、他人の評価は頼まれなくても積極的にやる。こうした機会を有効に活用すればよいのである。他人の評価というのは、それがどんなに耳の痛い話であっても、利害関係のない人からの評価であれば、現実に近いと考えてよい。そして、評価には、何をどう改善すればよいのかについての暗示(ときには明示)が含まれていることも多い。

だから、他人からの評価、特に耳の痛いことを言ってくれる人の言葉には、精一杯真摯な態度で、丁寧に聴くこと、聴いた後には一言お礼を欠かさないことも大事である。真摯で丁寧な態度で話を聴く相手に対しては、批評する側も、初めは自分の優越感を満足させたいだけだったとしても、次はこちらのために何か役立つことを言おうと考えるものである。『巨耳細口』(きょじさいこう、耳は大きく聞いて人の言葉を聴き、口は言葉少なく控えめに)を心がけたい」(21ページ)

新さんがご指摘しておられるように、「自分で自分をエライと思っているうちに、本当に自分はエライと思い込んでしまう」ことはいけないということは、ほとんどの方がご理解されると思うのですが、現実にはそのような方は少なくないようです。私が銀行で働いていたときも、融資を受けている会社の経営者の方から頭を下げられることが何度もありました。もちろん、それは、私に対して頭を下げておられたのではなく、「銀行の融資課の職員」という立場に対して頭を下げておられただけということは、十分、理解していました。

しかし、同僚の中には、融資相手の会社の経営者の方に対し、尊大な態度をとるものも、何人かいました。そのような状況を見て、人間は常に自分を戒めていなければならないと感じていました。もしかすると、私も、立場に対して頭を下げているということを理解しつつも、気づかないうちに、融資相手の会社経営者の方に対して、尊大な態度をとっていたかもしれません。

ところで、今回の新さんのご指摘を読んで、私は、横浜DeNAベイスターズ初代社長を務めた、池田純さんのご著書「空気のつくり方」に書かれていた内容について思い出しました。池田さんは、「匿名組織内調査」、すなわち、従業員が社長である自分をどう思っているのかということを匿名で調査し、自分への痛い空気を受けとめるということをしたそうです。もちろん、池田さんにとって、従業員が自分をどう思っているのかということを、一方的にきかされたことは、精神的にとてもきつかったそうです。

実際に、「社長はひとりで戦っている」、「いつも忙しそうで話しかけにくい」という意見があったそうです。さらに、「なぜ黒字にしなければならないのかわからない」という、社長である池田さんの考え方と真逆のことを考えている従業員が多く、池田さんと同じ思いの人は、池田さんの期待より少ない3分の1にとどまったそうです。でも、池田さんは、現実を知ることができたから、判断を誤ることはなかったと書いていました。だからと言って、中小企業経営者の方に対して、従業員が自分をどう考えているか、調査すべきであると、私は軽々に述べるつもりはありません。

私自身も、もし、社長の立場だったら、そのようなことをやってみようという勇気を持つことはできないでしょう。ただ、少なくとも、部下を持つ経営者は、どんなに注意していても慢心してしまうと考え、「巨耳細口」の考え方で経営に臨まなければならないと、改めて感じました。そして、繰り返しになりますが、そのような姿勢を怠ってしまうと、事業活動に悪い影響が及んでしまい、業績を悪化させることにつながるでしょう。

2024/10/11 No.2858

 

春風を以て人に接し秋霜を以て自ら粛む

[要旨]

シェル石油日本コカ・コーラなどで要職をお務めになられた新将命さんによれば、人は自分で自分を評価するときには2割以上のインフレで、他人を評価するときには2割以上のデフレで評価すると言われており、2割増しの自己評価は思い上がりという勘違いを生み、自分が思うほどには評価されていない現実とのギャップに悩むことになるので、自分の能力は自分ではなく他人が決めるものと考えることが望ましいということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、ジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人元社長の新将命さんのご著書、「伝説のプロ経営者が教える30歳からのリーダーの教科書」を読んで、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、新さんは、かつては、自分がデキルリーダーであると勘違いし、部下の反発を受けたことがあり、リーダーにはビジネススキルだけでなく、高い人間性も求められということを理解したそうですが、それからは、リーダーはビジネススキルと人間性の両方を備える二重構造の人でなければならないと考えるようになったということについて説明しました。

これに続いて、新さんは、自分の自分自身への能力の評価はどうしてもバイアスが働いてしまうので、他人の評価を尊重すべきであるということについて述べておられます。「人が犯しがちな勘違いの中で、恐らく最も多いのは、自己評価だろう。人の評価の基軸とは、その人の実態(Substance)と実績(Performance)の2本立てである。しかし、人は自分で自分を評価するときには2割以上のインフレで、他人を評価するときには2割以上のデフレで評価すると言われる。

2割足す2割で4割、この差は大きい。人は、自分は実際の自分より優れていると思い込み、他人は実際よりもダメなやつと思い込んでしまうということだ。2割増しの自己評価は、思い上がりという勘違いを生み、自分が思うほどには評価されていない現実とのギャップに悩むことになる。自己評価と他人から受ける評価のギャップに悩む人は、『他人の評価の方が間違っている』と、さらに勘違いを増幅させ、より深刻な精神状態に陥ることもある。

自分を実際より高く評価しているのは、ある意味で幸福な勘違いだが、人から受ける評価とのギャップに苦しむようになると、不幸な勘違いとなってしまう。自己評価と他者評価のギャップに悩んでいる人は、まず、自身の自己評価を2割ほど差し引いて見るのが適切な対応なのだが、なかなかそうはいかないようだ。反面、2割引の他人評価は、人を根拠なく見くびったり、バカにしたりという質の悪い勘違いにもつながる。どちらも人生を空回りさせかねない悪しき勘違いである。

そもそも、人の能力のあるなし、高い低いは自分が決めることではない。他人が決めることだ。昭和の疑獄事件の1つ、『ロッキード事件』で、田中角栄元首相を相手に捜査の指揮を執った、元東京地検特捜部の検事・堀田力氏のいうとおり、『能力は他人が決めるもの』なのである。『春風をもって人に接し、秋霜をもって己を律す』(佐藤一斎)という。多くの人は、“春風をもって己を遇し、秋霜をもって人を律する”という誤りを犯している」(20ページ)

古くから、「人の一寸我が一尺」や、「猿の尻笑い」などということわざがあることからもわかるように、人は基本的に他人に厳しく、自分に甘いので、新さんが述べておられるように、ビジネスパーソンは、自分に対して客観的に評価するよう心掛けなければならないということは、その通りだと思います。ただ、私は、人の評価に関しては新さんとは別の考え方を持っています。

というのは、人は自分に対する評価が甘くなるということはその通りですが、だからといって、他人からの評価が必ずしも正しいとも限らないからです。確かに、自分の自分への評価よりも、他者からの自分に対する評価の方が、正しい評価に近いかもしれません。しかし、その他者も感情を持つ人間であり、正確さには限界がります。例えば、気の合う人からは良い評価を受けやすいと思いますが、逆に、気の合わない人からは、それほど良い評価を得られないということは、しばしば、起きます。

そして、これを言ったら元も子もありませんが、そもそも、人が人に対して行う評価は正確なものにに近づけることはできても、正確に行うことはできないし、また、人はさまざまな個性があるので、正確な評価をすることそのものが困難です。だからといって、評価をしなくてもいいということにはならないので、できるだけ恣意的な評価が行われないような工夫をした上で評価をするべきだと、私は考えています。

単純な例では、顧客訪問回数、新規顧客獲得数、顧客からの見積もり受付件数、既存顧客からの新規顧客紹介件数など、プロセスに焦点を当てた指数を計測し、評価に加味します。本来なら、獲得売上額や獲得利益額を評価の中心にすべきですが、短期的な利益獲得のための活動だけでなく、長期的な視点での活動も可視化して、瞬発力のある人でなくても評価を受けられる仕組みがあれば、より客観的な評価に近づけることができると思います。

ちなみに、私がバランススコアカードの導入をお薦めしている理由は、業績の評価を行うためのツールであるKPIを個人レベルまで細分化すれば、より多面的で客観的な評価を行いやすくできるようになるからです。繰り返しますが、人の評価は絶対的に正しく行うことはできませんが、それに近づくための手法はあります。そして、より客観的な評価を行うこと、すなわち、透明性の高い評価を行うことは、従業員の士気を向上させ、そのことが業績の向上にもつながると私は考えています。

2024/10/10 No.2857

 

デキル人とデキタ人の二重構造が重要

[要旨]

シェル石油日本コカ・コーラなどで要職をお務めになられた新将命さんによれば、新さんは、かつては、自分がデキルリーダーであると勘違いし、部下の反発を受けたことがあり、リーダーにはビジネススキルだけでなく、高い人間性も求められということを悟ったそうです。すなわち、リーダーはビジネススキルと人間性の両方を備える二重構造の人でなければならないということです。


[本文]

シェル石油(現、昭和シェル石油)、日本コカ・コーラジョンソン・エンド・ジョンソン、フィリップなどで要職とお務めになられた、新将命(あたらしまさみ)さん(2022年9月にご逝去)のご著書、「伝説のプロ経営者が教える30歳からのリーダーの教科書」を拝読しました。新さんは、同書で、リーダーにはスキルと人格が求められるということについて述べておられます。「人生の勘違いは、貴重な時間を大幅にロスするし、ビジネス上で勘違いをすると、時間とともに、ヒト・モノ・カネという大切な経営資源までロスさせることがある。

この勘違いは、さまざまな場面で起こる。特に、若いうちはなおさらだ。その大本にあるのは、小知を得たも過ぎないにもかかわらず、それですべてをわかった気になるという大きな勘違いである。生兵法は大けがのもとである。私自身も、若い頃には勘違いが多かった。30代の私はデキル人に憧れた。勉強ができる、スポーツができる、仕事ができる、英語ができる。そうい人が30代のころの理想であった。デキル人がリーダーになるものと思い込んでいた。

私なりに、理想の人に近づこうと、会社に入ってからも、終業後、夜にビジネス講座に通って勉強していた。余談だが、若い頃、会社の帰りに何らかのビジネススクールへ通っていたという経営者は意外に多い。しかし、実際にリーダーの立場になってみると、リーダーはデキルだけでは務まらないことを痛いほど知ることになる。よく、『デキル人よりデキタ人』という。デキル人というのは才人である。スキルの高い人、技能に長けた人で実績もある、『手に職のある』人でもある。

一方、デキタ人とは、『論語』でいう君子である。人間力の高い、徳の人である。デキルだけの才人リーダーでは、部下の信頼は得られない。部下が、『この人のためなら……』と、心を許してついて来ないからだ。といって、デキタ人というだけでも、部下は安心してついて行けない。安心してついて行くには、リーダーに部下を納得させるだけのスキル(才)が求められるからだ。自分はデキルリーダーと思い込んでいた若き日の私は、部下の反発を受けて、自分の勘違いを悟った。

リーダーはデキル人というだけでは不十分。デキタ人というのもリーダー失格。『デキルデキタ人』という二重構造の人でなければならない。デキタ人になるための教科書は、『論語』や『貞観政要』をはじめとしてあるにはあるが、最も効果的なのは、『人という教科書』である。幸い私は、生きた教科書といえる立派な先輩に恵まれた。その先輩の言動を真似ることで、少しずつ自分をデキタ人に近づけ、結果として部下の信頼を勝ち取るということができた」(16ページ)

新さんの、リーダーは、スキルも必要であり、人格も必要であるというご指摘は、ほとんどの方がご理解されると思います。しかし、そのようなことを、新さんが改めてご指摘しておられるというのは、新さんご自身も、「自分はデキルリーダーと思い込んでいた若き日の私は、部下の反発を受けて、自分の勘違いを悟った」ということをご経験しておられるように、スキルさえあればリーダーを務めることができると考えてしまう人が多いからだと思います。

では、リーダーやリーダーを目指す人が、どうすれば人格を高めることができるのかということについては、これは言語化が難しいことや、また、机上で学ぶだけでは身に付けることができないことなので、それぞれの方が実践しながら身に付けていくしかないでしょう。そして、それに取り組んだとしても、漠然としていたり、なかなか効果が得られないことでもあることから、優秀なリーダーになることが難しいという面もあるのだと思います。

ところで、唐突ですが、「経営学」という学問についてお尋ねします。読者のみなさんは、経営学は何を目的とする学問だとお考えでしょうか?多くの方は、いわゆる「お金儲け」をするための学問と考えているかもしれません。そう考えることは必ずしも間違ってはいないと思うのですが、私は、経営学は組織のパフォーマンスを高めるための学問だと考えています。

ただ、日本語では「経営」という言葉が使われているので、ビジネスに関わる学問だと思われてしまいがちですが、経営は英語ではマネジメントであり、マネジメントとは、必ずしもビジネスだけに限らず、あらゆる組織活動にあてはまる活動です。では、ここでなぜ経営学のことに言及したのかというと、前述したように、経営学は組織が対象であるからです。例えば、経営学は、組織を構成している人間についても研究の対象となっているということです。例えば、リーダーシップになどは、しばしば議論の的になります。このリーダーシップを発揮するには、いわゆるビジネススキルとは異なるスキルが求められます。

すなわち、「お金儲け」とは別の分野でのスキルです。これも前述したように、新さんは、かつては、ビジネススキルに大きな関心があったわけですが、後に、それだけは不十分であり、事業活動は組織的活動であるので、組織に関するスキルも求められるということに気づきました。したがって、上から目線で恐縮ですが、「経営」とは、お金儲けのことだけではなく、組織のパフォーマンスを高めることであるととらえていれば、ビジネススキルがあれば十分という誤解をする人が減るのではないかと、私は考えています。

2024/10/9 No.2856

 

過去の成功体験は経営判断を歪める

[要旨]

コンサルタントの徳谷智史さんによれば、かつてご支援した会社で、社長の肝煎りのプロダクトが、最初は好調に売れたものの、その後、売れ行きが下がってしまったことがあったそうです。これは、当初、プロダクトを購入した顧客は、社長の「顔」で購入したものの、プロダクトそのものを評価したわけではなかったからだそうです。しかし、社長は過去の成功体験に引っ張られ、誤った経営判断をしてしまったので、もっと冷静になって、客観的な判断ができるようにしなければならないということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、徳谷智史さんのご著書、「経営中毒-社長はつらい、だから楽しい」を読み、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、徳谷さんによれば、会社経営者は、経営判断を行うときにベストを尽くしていても、それが正しかったかどうかという気持ちを断ち切れないことが多いそうですが、過去の決断を振り返って悔やんだところで何も生まれることはないので、その意思決定の結果として、仮に事業や組織が望む状態にならなかった、厳しい状況に追い込まれたとしても、その経験を踏まえて、「次にどう活かせるか」と考えるしかないということについて説明しました。

これに続いて、徳谷さんは、経営者の方の中には、過去の成功体験に引っ張られて判断を誤ることがあるので、注意しなければならないということについて述べておられます。「ある企業の話です。社長自ら丹精込めてつくりあげたプロダクトが、出足こそ好調だったものの、想定していた目標からは大きく未達。いったい何が起きたのでしょうか。

後日、導入先の顧客に話を聞くと、実は、プロダクトを評価していたわけではなく、社長との関係性から導入せざるを得なかったのです。当の社長は、『プロダクトが市場で受け入れられた』と勘違いしており、『営業次第で拡販できるはず』と、営業部に繰り返し改善を求めます。しかし、プロダクトのコンセプト自体が市場に合わない以上、そう簡単に売れるはずがありません。組織の誰も、社長の『成功体験』を表立って否定できず、経営に行き詰まってしまったのです。

ちなみに、歯止めが利かなかった根本的な背景には、社長は過去に近しいプロジェクトをヒットさせてきただけでなく、この会社の経営陣が、過去に類似プロダクトで、別の会社を華やかに上場させた実績がありました。そうした成功体験があだとなり、現実と向き合わなくなってしまったのです。トップとしては、常に、過去にとらわれず、フラットな目で見ることが必要だったという教訓ではないでしょうか」(338ページ)

私も、これまで、「会社勤務時代に身に付けた技術を活かして起業したい」という方からのご相談を、数多く受けてきました。ある意味、起業しようとする方にとっては、これは当然の流れです。しかし、徳谷さんも述べておられるように、過去に成功したことが、これからも成功するとは限らないわけで、自分の能力を過信することは避けなければなりません。ところが、会社経営者は、「過信」する人が少なくないことも現実だと、私は感じています。その理由は、経営者(だけに限りませんが)は、自社商品を贔屓目に見てしまう傾向にあり、「自分が開発した製品は必ず売れる」と思い込んでしまう傾向があるからだと思います。

これは、ある意味で、マイケル・E・ガーバーが、彼の著書、「はじめの一歩を踏み出そう」で述べている「起業熱」の一種だと思います。しかし、現在は、モノ余りの時代であり、売られている商品は品質が高くてあたり前という状態です。仮に、自社商品が世に出た時点では、他社商品より優れていたとしても、日進月歩で技術が発展する時代では、すぐにその差は縮まってしまうでしょう。したがって、現在は、昨日の成功体験は、明日は通用しなくなると考えなければならないといういうことです。

ただし、私は、単に、「昨日の成功体験は、明日は通用しなくなると考えなければならない」という心構えが大切だと言いたいのではありません。これからの時代に事業を成功させるためには、「何をつくればよいのか」、または、「何を売ればよいのか」が問題になるのではなく、「どうやって市場のニーズを捉えて事業に適応させるか」が問われるということです。

少し厳しい言い方ですが、社長が売りたいものを売るという考え方は、内向き過ぎであり、余ほどの差別化が図られていなければ、事業は成功しません。経営者の方に、市場のニーズを捉えて事業に反映させるというマネジメント能力がなければ、事業を長く続けることは難しいと思います。少なくとも、自社商品に自信がある場合であっても、販売データなどを迅速に把握する仕組みを整え、自社商品の競争力の高さを客観的に検証できるようにしておくことは欠かすことができないでしょう。

2024/10/8 No.2855

 

経営判断に100点の正解はない

[要旨]

コンサルタントの徳谷智史さんによれば、会社経営者は、経営判断を行うときにベストを尽くしていても、それが正しかったかどうかという気持ちを断ち切れないことが多いそうです。しかし、過去の決断を振り返って悔やんだところで何も生まれることはないので、その意思決定の結果として、仮に事業や組織が望む状態にならなかった、厳しい状況に追い込まれたとしても、その経験を踏まえて、「次にどう活かせるか」と考えるしかないということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、徳谷智史さんのご著書、「経営中毒-社長はつらい、だから楽しい」を読み、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、徳谷さんによれば、会社経営者は、社内外に弱気になっていることを、なかなか話すことができませんが、意思決定の拠り所を取り戻すうえでも、社外の中立な第三者に「壁打ち」の相手になってもらい、対話をすることで、「原点はこれだった」と、客観的な視点を取り戻すことができるようになり、より精度の高い意思決定が可能になるということについて説明しました。

これに続いて、徳谷さんは、経営者は過去の決断を悔やんではいけないということについて述べておられます。「社長は、どんなときも、自分が判断できる範囲において、ベストな決断を下しているはずです。しかし、それでも自分の意思決定に100%自信を持てる社長はなかなかいません。悩ましい経営判断になればなるほど、『本当にこれで良かったのだろうか……』、『もうちょっとこうすべきだったのではないか……』という気持ちが断ち切れないときがやはりあります。

事業に関する決断も悩ましいですが、人に関する決断は、特に大きな葛藤を伴うものです。私自身も、企業再生の現場で、不採算の事業部を組織ごと解体せざるを得ないという意思決定をした経緯が何度もありますが、その度に、言葉では表現し難い葛藤に苛まれていました。一緒に仕事をした人たちの顔が浮かぶだけに、心の奥底ではそうしたくないのです。社長自身が大事にしていることと反する意思決定をせざるを得ないときの葛藤に、社長の多くが苦しんでいるのではないかと思います。

しかし、社長であろうと、そうでなかろうと、過去の決断を振り返って悔やんだところで何も生まれません。結局は、未来を向いて、意思決定を活かしていくしかないのです。その意思決定の結果として、仮に事業や組織が望む状態にならなかった、厳しい状況に追い込まれたとしても、その経験を踏まえて、『次にどう活かせるか』と考えるしかありません。結局のところ、意思決定は、そのとき、その瞬間の判断に過ぎないのです。

ベストと思える意思決定をしたら、その決断を成功させるために全力で取り組む。意思決定したことには固執せず、様子を見ながら軌道修正する。そのサイクルを速く回すことの方が大切だったりします。変化が大きく、不確実なスタートアップで成功確率を高めるには、1回の意思決定に囚われず、改善のサイクルをとにかく速くすることを心がけるといいでしょう」(331ページ)

私が述べるまでもありませんが、経営者の役割の半分くらいは、意思決定です。しかも、経営者は、「結果責任」から逃れることはできません。もし、判断を誤れば、最悪、会社の事業が停止してしまったり、自分の地位を失ったりしてしまうかもしれません。さらに、もっと大変なことは、例えば、不採算事業の撤退について判断するとき、社内の賛成派が51%、反対派が49%というようなときであっても、最終的には経営者が決断しなければなりません。

経営者は、どちらを決断しても、多くの部下から恨まれるようなことになることが、決断の前から分かっていても、それでも決断しなければなりません。そのような状況であれば、経営者は決断することから逃げたいと考えたとしても、当然かもしれません。しかし、決断から逃げたとしたら、逃げたことを批判されたり、決断を先延ばしにした結果、さらに状況が悪化することになるかもしれません。

そうであれば、徳谷さんがご指摘しておられるように、(1)決断をする瞬間にベストの決断をすること、(2)仮に決断の結果が思わしくなかったときは軌道修正できるように備えておく、ということだと思います。こうすることで、経営者の方は、決断するときの心理的な負担が、少しでも少なくなるでしょう。そして、私は、特に中小企業が行うべきこととして、リスク管理やリスク対策を行うことだと思っています。

中小企業ができるリスク管理・リスク対策としては、例えば、売上が特定の顧客に偏らないように分散させる、特定の顧客の売掛債権額が突出しないようそれらを管理する、さらに、売掛債権に対して保険をつける、商品ごとに在庫管理を行い陳腐化を事前に防ぐ、3行以上と銀行取引を行い、1行から融資を断られても他行にも申請できるようにしておく、事業継続計画(BCP)を策定しておき、不測の事態に備えるなどです。こういったリスク管理・リスク対策を行うことによっても、経営者の意思決定のときの心理的負担を減らすことができるでしょう。

最後に、非論理的なのですが、私がこれまで中小企業の事業の改善のお手伝いをしてきて感じることは、経営判断には100点の正解というものはないということです。例えば、A案とB案があったとき、事後的にA案は60点、B案は40点だったということもあります。ですから、前もって、100点の正解を探してしまうと、決断はできなくなるので、100点の正解を探そうとすることは、あまり賢明ではないと思います。

また、もっと極端な例では、事後的にA案もB案も100点だったということもあるし、A案もB案も0点だったということもあります。そうであれば、徳谷さんがご指摘しておられるように、「ベストと思える意思決定をしたら、その決断を成功させるために全力で取り組む、意思決定したことには固執せず、様子を見ながら軌道修正する、そのサイクルを速く回す」ということです。経営判断に関しては、私は、「巧遅は拙速に如かず」だと思っています。

2024/10/7 No.2854