鄙のビジネス書作家のブログ

鄙で暮らす経営コンサルタント(中小企業診断士)・ビジネス書作家六角明雄の感じたことを書いているブログ

森の大木が倒れると新芽に陽があたる

[要旨]

冨山和彦さんによれば、大企業が倒産するのは、森の中で大木が倒れるようなものであり、寿命を迎えた大木が倒れると、森が明るくなり、地表近くの新しい芽に日が当たるようになるということです。すなわち、1990年前後の米国のシリコンバレーの大不況期の後、育ってきたのがYahoo!であり、Googleであったように、新陳代謝が図られると見ることもできるということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、冨山和彦さんのご著書、「結果を出すリーダーはみな非情である」を読んで、私が気づいたことについて説明したいと思います。前回は、冨山さんによれば、中間管理職への研修は、組織の上下左右の調整能力育成が大きな要素だったものの、今、日本企業が本当に必要としている中間管理職は、リーダー型中間管理職、トップリーダーと同じ発想で考える、ミドルリーダーとしての課長や部長なので、中間管理職はもっと高い目線で自分自身を将来のトップリーダーとして鍛える方法を考え、実践することが求められているということについて説明しました。

これに続いて、冨山さんは、会社の倒産は短期的にはネガティブな現象ですが、産業構造がより効率的な方向にシフトすることでもあるということについて述べておられます。「日本の歴史的なサイクルを振り返ると、すでに1990年代ごろから、旧態依然としたシステムをかなり大きくかき回して再構築しなければいけない時期に来ていたと言えるだろう。しかし、いまだにその“撹拌”がうまくいっていない。そのために、日本も日本企業も1990年代以降、ダラダラと緩やかな衰退を続けている。

正直言って、過去20年間について言えば、少なくとも産業界ではアメリカの方が果敢に挑戦し、撹拌に成功している。例えば、IBMを見てみるとよい。コンピュータ関連に軸足は置きつつも、HDD(ハードディスクドライブ)事業やパソコン事業などを売却して、ハード部門は大幅縮小し、コンサルティング・サービスや、ソフトウェアといったソフト部門で儲ける、以前とはまったく異なる収益構造の企業に変身した。大きな経営危機に陥るなど、激烈なアップダウンがあると、こういう撹拌が起きる。

シリコンバレーあたりでは、20年も経つと、昔いた人が跡形もなくいなくなってしまうのが常であり、通信業界やIT業界の主役は、20年前のAT&TやIBMから、今はAppleやFacebookに入れ替わった。形を変えて生き残っているIBMの地力は、見上げたものだ。中国でも、企業がどんどん新設されているのと同時に、国営企業も含めてどんどんつぶれている。会社がつぶれるということに関して、欧米的なスタンスというか、非常に無頓着な国と言ってよい。それらと比較すると、日本は特異な国だ。

会社が実在的な共同体になってしまっているので、つぶれることはすなわち、共同体を壊すことに直結する。第2次世界大戦前は、そうでもなかった。戦前の株式会社は、今よりずっとゲゼルシャフト(利害社会:対語は共同体を意味するゲマインシャフト)的な、契約的な集団であった。それが、戦後にでき上った、カタカナで言う『カイシャ』というのは、村落共同体的な集団になった。会社がつぶれることが、社会的な罪悪と捉えられてしまう。会社に自分の生涯とか、家族の命運をかけて、寄りかかっている人が多い。

企業年金の仕組みにしても、健康保険にしても、あらゆる社会保障システムは、会社を中心に整備してきてしまったので、会社をつぶすときのコストは、経済的にも心理的にも非常に高い。だから、この国で倒産が増えるということは、みな、罪悪のように思っている。会社をつぶさないように、債権者である金融機関も安全装置として頑張らないといけない。そういう仕組みになっているのである。例えば、倒産が増え、失業者が増えるのは、確かに経済にとって短期的にはネガティブな現象なのだ。

しかし、供給が調整されたり、それによって産業構造がより効率的な方向にシフトするときに起きる摩擦的現象まで止めてしまうことになると、先に進めなくなってしまう。大企業が倒産するのは、森の中で大木が倒れるようなものだ。寿命を迎えた大木が倒れると、森が明るくなる。そうすると、地表近くの新しい芽に日が当たるようになる。1990年前後のシリコンバレーの大不況期の後、そうして育ってきたのが、アメリカではYahoo!であり、Googleであった」(54ページ)

前回、私は、「かつての日本の会社では、社会全体の価値感ではなく、『カイシャ』という『ムラ社会』の論理を優先し、社会全体の観点で正しいかどうかではなく、波風を立てないことが最優先されてきた」と述べました。そして、冨山さんも、「戦後にでき上った、『カイシャ』は村落共同体的な集団になり、会社に自分の生涯とか、家族の命運をかけて、寄りかかっている人が多い」と述べておられます。これを噛み砕いて言えば、日本の会社は、ヒトが集まってできたムラになっているということです。

会社は、本当は、出資者がカネを会社に提供し、それでモノを買って販売するものであり、その事業活動をヒトが行うものです。すなわち、カネを一時的にモノに変え、事業活動によってモノを販売して、カネを増やすための枠組み、すなわち、「カネの論理」で動くものです。その表れのひとつは、会社(株式会社)の意思決定は、最終的には、資金の提供者である株主が持っています。従業員、顧客、仕入先、銀行なども、会社の意思決定に影響を与えることはできますが、そのような影響力は間接的なものであり、直接、意思決定ができるのは株主だけです。

念のため、付け加えておきますが、株主だけが意思決定できるということは、裏を返せば、事業活動の最終的な責任は株主だけにあるということであり、従業員や銀行にはないということです。また、意思決定ができる立場にない利害関係者は軽んじられるのかというと、意思決定の権限があるかどうかにかかわらず、現在の事業活動は、すべての利害関係者が重要な立場にあり、軽んじられてもよい利害関係者がいるということは、言うまでもありません。

話を本題にもどすと、役職員がムラの論理で意思決定したり行動したりすると、本当はカネの論理で動いている会社がおかしなことになるということです。例えば、不正検査問題というのは、行政機関や顧客を裏切る行為ですが、不正検査を行った人たちは、行政機関や顧客よりも上司や先輩を重視したということになるでしょう。では、こういったことが起きないようにするためにはどうすればよいのかというと、その方法はあると私は考えていますが、現実にはとても難しいようです。

そこで、冨山さんは、「大企業が倒産するのは、森の中で大木が倒れるようなものだ、寿命を迎えた大木が倒れると、森が明るくなる、そうすると、地表近くの新しい芽に日が当たるようになる」と述べておられるのだと思います。大きな会社の事業が行き詰ることは悲しいことですが、その会社が、もし、ムラの論理で動いていたとしたら、そのような会社は、顧客や銀行から評価されなくなることは、ある意味、当然と言えます。これは、自牛主義経済の暗い面なのかもしれませんが、健全性を維持するためには必要なことであると、私も考えています。

2024/7/26 No.2781