[要旨]
公認会計士の金子智朗さんによれば、その人の働きに全く関係なく年齡という要因だけで給料が上がっていくのは、永遠の右肩上がりを信じていた時代の幻想であり、会社の利益に多く貢献した者がそれだけ多くの給料をもらうことは、経済原理からして当然であり、コスト管理の面からも理に適った考え方だということです。
[本文]
今回も、前回に引き続き公認会計士の金子智朗さんのご著書、「同じモノを売っているのに、儲かっている会社、儲かっていない会社」を読んで、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、金子さんによれば、20代のときに勤務した会社で部長表彰を受けたことがあったそうですが、副賞は500円のテレフォンカードであり、それは、日本では年功賃金の慣習が色濃く、成果が給料にあまり反映しないという悪平等によるもので、そのような弊害が組織の活性化の妨げになっているということについて説明しました。
これに続いて、金子さんは、従業員の評価は信賞必罰でなければならないということについて述べておられます。「その人の働きに全く関係なく年齡という要因だけで給料が上がっていくのは、永遠の右肩上がりを信じていた時代の幻想です。会社の利益に多く貢献した者がそれだけ多くの給料をもらうことは、経済原理からして当然です。こう言うと『成果主義の話か』と思われるかもしれません。一般に、成果主義は批判の対象になることが多いようです。
確かに、成果主義による評価は運用が難しいのは事実です。すベての従業員が成果で測れるような仕事ばかりしている訳ではないのも事実です。また、成果だけで評価され、プロセスが評価対象にならないというのも問題なのかもしれません。しかし、給料は会社が稼ぎ出す富の分配である以上、会社に利益が出ていないのに給料だけはしっかり支払われるということは原理的にあり得ません。そんなことは、自分ひとりで仕事をすることを想像すればすぐに分かります。
どんなに努力しようが、真面目に働こうが、結果が伴わなければお金は一円たりとも入つて来ません。プロセスにお金を払ってくれる人は誰もいません。プロに努力賞はないのです。1人の個人としては当然のことが、なくなるのなぜ集団化した会社になると当然ではなくなるのでしょうか。評価の仕組みは信賞必罰が大原則です。良いものは良い、ダメなものはダメと評価することです。特に、良いものは良いともっと大胆に評価すベきです」(195ページ)
大量生産大量消費の時代は、「年功」に価値があったので、年功賃金は理に適っていました。しかし、現在は、年功に価値がないので、年功賃金は理に適わなくなっています。そういった視点から、年功賃金は合理的ではありません。しかし、組織がフラットであればどうでしょう。
フラットな組織体制であれば、マネージャーを除く全員が、年功に関係なく、直接的に利益につながる活動をすることができます。そうであれば、全員が、正当な評価を受けることができます。もちろん、直ちにフラットな組織に転換することは難しいですが、そのように変えていくことは、コスト管理の面や、評価の公平性の観点からも大切だと、私は考えています。
2026/7/2 No.3487
