鄙のビジネス書作家のブログ

鄙で暮らす経営コンサルタント(中小企業診断士)・ビジネス書作家六角明雄の感じたことを書いているブログ

内部留保は人件費の源泉にはならない

[要旨]

利益の内部留保が多いことを理由に賃上げすべきという主張が行われることがありますが、これは理論的に誤りであり、人件費は利益を源泉として支払われるものではなく、人件費を差し引いた後が利益ですので、話の順序が全く逆になっています。事後的に人件費を増やしたところで、今ある内部留保を減らすことはできませんが、人件費を増やせば利益が減少しますから、将来に向かって内部留保の増加を抑制する効果はあります。しかし、そうだとしても、利益がプラスであり、かつ、当期純利益の全額を配当に回さない限り、内部留保は確実に増加します。


[本文]

今回も、前回に引き続き、公認会計士の金子智朗さんのご著書、「教養としての『会計』入門」を読んで、私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、金子さんによれば、費用は、一律に減らせばよいということではなく、キャッシュ・アウトの原因になる悪玉コストと、売上の源泉となる善玉コストがあるので、両者をしっかり見分け、悪玉コストは徹底的に減らし、善玉コストはさらに増やすという判断をしなければならないということについて説明しました。

これに続いて、金子さんは、内部留保について述べておられます。「自己資本比率は負債を減らすことによって上昇しますが、利益の内部留保によっても上昇します。利益の内部留保は、利益剰余金という純資産科目に計上されるからです。安全性の観点からは利益の内部留保が増えることは望ましいことですが、一方で、日本企業は内部留保が多すぎるという批判がよくなされます。『そんなに多くの内部留保があるんだったら賃上げに回せ』というような論調です。過剰な内部留保をさせないために、内部留保に課税すペきだという意見もきかれます。これらの意見は、いずれも正しいとは言えません。

根本的な間違いは、『内部留保=お金のため込み』という誤解です。確かに、利益が内部留保されたその瞬間は、それに相当するキャッシュが社内に留保されているでしょう。しかし、そのキャッシュはその後何かに使われていきます。内部留保の額に相当するキャッシュがいつまでも社内にため込まれているわけではありません。問題があるとするならば、それは留保されたキャッシュが何にも使われずにキャッシュのまま置かれている場合です。多くのキャッシュが手元にあるのは安全性の観点からは良いのですが、収益性の観点からは望ましくないのです。

なぜならば、キャッシュそれ自体は新たな富を生まないからです。キャッシュは、設備や研究開発など、何かに使って初めて新たな富を生み出します。百歩譲って銀行に預ければ利息という新たな富が生まれますが、そんなのは微々たるものです。そもそも預金して利息を得るのは誰でもできますから、その企業に期待されていることでもありません。キャッシュをそのまま持っていることは、安心感にはつながるかもしれませんが、新たな富は生まないのです。ですから、内部留保に関して問題にするならば、貸借対照表の左側です。右側ではないのです。

留保したキャッシュを有意義なものに使っているかどうかという、貸借対照表の左側が問題なのです。なお、利益の内部留保が多いことを理由に『賃上げをしろ』とか『課税すベきだ』という主張は、そもそも理論的に間違っています。まず、賃上げに関してですが、人件費は利益を源泉として支払われるものではありません。人件費を差し引いた後が利益ですので、話の順序が全く逆になっています。事後的に人件費を増やしたところで、今ある内部留保を減らすことはできません。ただし、人件費を増やせば利益が減少しますから、将来に向かって内部留保の増加を抑制する効果はあります。しかし、そうだとしても、利益がプラスであり、かつ、当期純利益の全額を配当に回さない限り、内部留保は確実に増加します。

次に、『内部留保に課税すベき』という意見は、租税理論的に許容されません。なぜならば、内部留保に課税すると二重課税になるからです。内部留保は、法人税等が課された後の税引後利益が留保されたものです。これに課税すると、既に課税されたものにさらに課税することになります。これが、二重課税です。二重課税を認めると、同一の課税対象に対して際限なく課税することが可能になってしまいます。それでは担税者の利益が著しく害されるので、二重課税は租税理論的にご法度なのです。

ただ、制度的には、一定の同族会社に対しては内部留保に課税するという制度が以前からあります。これは極めて政治的な思惑によってつくられた制度です。租税理論の立場からすれば本来は禁じ手です。実質的に考えても、内部留保に課税したら、『課税されるくらいなら使ってしまえ』というインセンティプが企業に働くでしょうから、社内に資金が留保されなくなります。そうなると、企業は長期的な事業資金を持たなくなるので、近視眼的な経営しかできなくなります。結果的に経済全体にとっても望ましいことにはならないはずですが、制度をつくる人たちはそのようには考えないようです」(222ページ)

金子さんが、「人件費は利益を源泉として支払われるものではありません、人件費を差し引いた後が利益ですので、話の順序が全く逆になっています」と述べておらますが、これは、簿記や会計の知識のある人であれば、当たり前のことであって、「内部留保があれば賃上げが可能」という批判が起きることはまったく無意味な批判です。とはいえ、賃上げを主張することが間違っているわけではないので、賃上げをすべきというのであれば、内部留保の額を根拠とすべきではなく、労働分配率の低さや、手元流動性の多さなどを根拠にすべきです。

私は、日本の会社員の給与水準については大いに議論をして欲しいと思っているので、非論理的な根拠で議論することは、1日でも早く止めて欲しいと思っています。それでも、それが続くのであれば、きちんと会計の知識を身に付けてもらうほかないのだと思います。ちなみに、内部留保(利益剰余金)を改めて説明すると、これは、会社を創業してから現在までの利益の合計額です。ですから、しばしば、「内部留保が過去最高」という新聞記事が出ることがありますが、会社が毎年利益を計上していれば、前年の内部留保の額に今年の内部留保が加わるので、過去最高になることは当たり前です。

そして、内部留保を家計に例えると、父親が20年間勤務したときの、会社から受け取った給与の累計額が1億円だったとすると、それが内部留保にあたります。そして、21年目も給与を受け取りますので、この額は、毎年、最高額になります。ところが、「あなたの家の給与の累計額が1億円なのだから、もっと家族によい暮らしをさせてあげるべきだ」と、親戚から父親が指摘されたとします。でも、その1億円は、これまで普段の生活費に使ったり、家を建てたり、子供の教育費に充てたりして、別の形に変わっているのであり、受け取った給与の総額の多さをいくら指摘されても、現状を改善することはできないのです。

ただ、その父親が、普段の生活費をかなり節約し、5,000万円の預金を貯めていたとします。そうであれば、「その預金を取り崩して、もう少し、家族に不自由のない生活をさせてあげてはどうか」という指摘は妥当と言えるでしょう。そして、指摘を受けた父親が、「この預金は、将来の不測の事態に備えているのだ」という反論も妥当と言えるでしょう。でも、前述の通り、給与の累計額をどれだけ指摘されても、何の意味もないのです。繰り返しになりますが、もし、これからも内部留保に対する批判が続くのであれば、日本では、もっと会計に関する知識を広める必要性があると、私は考えています。

2025/5/1 No.3060