鄙のビジネス書作家のブログ

鄙で暮らす経営コンサルタント(中小企業診断士)・ビジネス書作家六角明雄の感じたことを書いているブログ

倫理観は高度な資本主義の発達に必須

[要旨]

経済評論家の加谷珪一さんによれば、ビジネスの世界に倫理観や善悪の概念を持ち込むことは、経済活動を阻害すると考える人も多いようですが、むしろ、それらは高度な資本主義の発達にはなくてはならないものであり、このような考え方は、ドイツの社会学者のマックス・ヴェーバーらの理論によって、かなり前がら確立しているということです。


[本文]

今回も、前回に引き続き、経済評論家の加谷珪一さんのご著書、「国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶」を読んで私が気づいたことについて述べたいと思います。前回は、加谷さんによれば、日本人は根源的な善悪の概念に鈍感であり、集団の秩序維持という目的に従って、その場の空気や零囲気で善悪を判断するという特徴があるので、不正行為を行った日本の経営者の多くには、明確な意図がなく、その場の雰囲気でウソをついてしまった、株主の意向を無視してしまったということが多いということについて説明しました。

これに続いて、加谷さんは、自由主義経済の発展のためには、倫理観が必要ということについて述べておられます。「日本では、ビジネスの世界に倫理観や善悪の概念を持ち込むことは、経済活動を阻害すると考える人も多いのですが、そうではありません。それどころか、倫理観や善悪の概念は、むしろ高度な資本主義の発達にはなくてはならないものであり、これは社会学の世界ではかなり前がら確立している概念と言えます。一見すると逆説的に思えるこの命題を理論化したのは、ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーです。

資本主義には、皆がお金儲けに奔走しているような社会で発達しそうなイメージがあり、しばしば拝金主義と同一視されますが、実際はまったく正反対であるというのが彼の主張です。ヴェーパーは近代資本主義の萌芽について、『東洋および古代の経済学説と異なり、徹頭徹尾、資本を敵視して止まないところの経済学説が公然と行われていた領域にこれを求めねばならぬ』(『一般社会経済史要論』)、と述べており、金銭欲など世俗的な欲求に対して寛容な地域(カトリック圈など)では資本主義があまり発達せず、むしろ、プロテスタントの影響が強く、禁欲的な風潮が強い地域(オランダや米国)の方が資本主義が発達しやすいと指摘しました。

つまり資本主義がうまく機能するためには、『資本主義の精神』というメンタルな部分が重要であり、禁欲的な社会においてこそ、こうしたマインドが発揮されやすいという逆説的な理論です。中国は太古の昔から商売が盛んで、お金が大好きな国民性ですが、近代資本主義は発達しなかったこともこの説を裹付けています。

ヴェーバーは、宗教改革創始者であるルターが打ち出した『天職』という概念や、同じく宗教改革で重要な役割を果たしたカルヴァンの『予定説』といった、極めて倫理的な価値観が資本主義の発達に大きな影響を与えたと主張しています。今となっては、細かい点においてヴェーバーの説は修正されている部分もありますが、資本主義の本質を突いた傑作であることに変わりありません。

当時はプロテスタンティズムという宗教概念がこうした行動様式を作り上げていたわけですが、その後、禁欲的な宗教概念は失われ、社会機構が逆に倫理的行動を要請する形になっています。ヴェーバー自身はこうした状況について『鉄の檻』(『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』)と表現しており、その将来を危惧していますが、いずれにせよ倫理観と資本主義というのはセットであり、逆に言えば、倫理観のない経済活動は到底、資本主義とは呼ベません。

一部の論者は、キリスト教など明確な宗教を持たない日本人にとって根源的価値観を持つことは難しいと主張していますが、筆者はそうは思いません。宗教を持つ一部の人にとっては異論があるかもしれませんが、宗教というのはあくまで人間の心が作り出したものです。根源的な善悪が存在すると考えているからこそ、神は根源的な善悪を人間に与えたと考えるわけですし、基本的人権が存在するという概念も、もともと人間が持っていたものです。(中略)

渋沢栄一儒教に資本主義のモラルを求めましたが、基本的な考え方は同じだと思います。何か問題が発生した際、『○×法の第何条に抵触するしない』、あるいは、『法律に規定がないので責任は間えない』といった些末な議論で終わらせず、民主主義や資本主義の基本原則に立ち返って、その行為はどう評価されるべきなのか包括的に議論することが重要でしょう」(218ページ)

自由主義経済という言葉のイメージからは、無秩序に経済活動が行われるというイメージを持つ方も多いと思いますが、これは、加谷さんもご指摘しておられるように、「倫理観や善悪の概念は、むしろ高度な資本主義の発達にはなくてはならない」ことは、広く知られています。日本では、二宮尊徳が、「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」という言葉を残したと言われていますが、これも経済活動に道徳は欠かすことはできないという意味でしょう。

また、米国のコンサルタントのコリンズの著書、「ビジョナリー・カンパニー(2)飛躍の法則」では、最も業績のよい会社の経営者に共通することとして、「『個人としての謙虚さ』と『職業人としての意志の強さ(不屈の精神)』という一見矛盾する『二面性』を兼ね備えていること」と指摘しています。多くの方は、業績のよい会社は、剛腕な経営者が強いリーダーシップを発揮しているというイメージを持っていると思いますが、実はそうではないようです。

さらに、京セラの創業者の稲盛和夫さんも、因果応報の考え方を重視し、謙虚であることの大切さを説き、京セラを優良企業に育てました。その一方で、「いまは、道徳よりも、稼ぐだけで精一杯」と考えている経営者の方も少なくないと思います。私も、会社勤務時や、フリーランスになってからも、そのように感じることがありました。しかし、打算的なつきあいは長続きしません。結局は、人間的な信頼関係がなければ、それは、自社の事業活動に資するものとはなりません。

話を戻すと、「ビジネスの世界に倫理観や善悪の概念を持ち込むことは、経済活動を阻害すると考える人も多いのですが、そうではない」と加谷さんがご指摘しておられる通りだと思います。そして、繰り返しになりますが、それは、多くの識者や経営者が証明しているところであり、業績を高めたいと考える人こそ、高い倫理観を持たなければならないでしょう。

2025/2/11 No.2981