[要旨]
冨山和彦さんによれば、会社の将来のリーダー候補は、自分の頭で考え、自分の判断基準で決め、自分の行動原則に基づいて実行する、すなわち、仕事にコミットする人材だということです。逆に、将来のリーダーに適さない人は、ホウレンソウを繰り返し、丁寧に根回しをして、皆の意見を思い切り足して割るような内容のプランをまとめ、責任が曖昧な状態にしてからアクションに移すような人だということです。
[本文]
今回も、前回に引き続き、冨山和彦さんのご著書、「結果を出すリーダーはみな非情である」を読んで、私が気づいたことについて説明したいと思います。前回は、冨山さんによれば、日本の会社に米国型の制度である委員会等設置会社はなじまないそうであり、その理由は、企業統治上の主導権は株主であるというドグマが一般的に受け入れられているアメリカのような国でしか機能しない制度だからということについて説明しました。
これに続いて、冨山さんは、将来のリーダー候補は、自分の責任で勝負する人であるということについて述べておられます。「必ずしも成果を上げていない、言いかえれば、失敗している人間の能力をどう評価するべきか、失敗や挫折が、将来のリーダーとして、人を大きく成長させるとすると、その評価はとても重要な課題である。ミドルマネジメント、あるいはその一歩手前のラインマネジャー・クラス人たちを念頭に置いてこの問題を考えると、まず、その人が挑戦した仕事のテーマについて、本人がどこまでコミットしたか、まとめて自分の責任で勝負したかが鍵となる。
最終的に自分の頭で考え、自分の判断基準で決め、自分の行動原則に基づいて実行したか。そうであれば、そのこと自体が、将来のリーダー候補としての最低条件クリアを意味する。ホウレンソウも結構だが、これをやたら多頻度に繰り返し、めちゃくちゃ丁寧に根回しをして、皆の意見を思い切り足して割るような内容のプランをまとめ、『赤信号、みんなで渡れば怖くない』というところまで持ってきてからアクションに移すようでは、自分はまったくリスクを取っていないことになる。
こんな仕事の仕方は、リーダーとしての本当の訓練にはならない。リスクを思い切り分散しているということは、その仕事に自分個人としてコミットしていないということだ。それは、ひょっとするとビジネスの世界で何かにコミットして全責任を負うのが苦手な性格を意味しており、だとすると、リーダー人材としては適性がないことになる」(235ページ)
この冨山さんのご指摘は、私はその通りだと思うのですが、私のこれまでのビジネスパーソンとしての経験から感じることは、もし、「自分の頭で考え、自分の判断基準で決め、自分の行動原則に基づいて実行」する部下がいれば、そういう部下を煙たがる上司が多いということです。そして、そのような上司は、「ホウレンソウを繰り返し、丁寧に根回しをして、皆の意見を思い切り足して割るような内容のプランをまとめ、『赤信号、みんなで渡れば怖くない』というところまで持ってきてからアクションに移す」部下を歓迎します。
すなわち、多くの上司(経営者層を含む)は、「事なかれ主義」になっている場合が多いのが現実だと思います。この事なかれ主義は、私が述べるまでもありませんが、経営環境が追い風のときはよい方法だと思います。でも、経営環境が逆風のときは、自社の体質を弱めてしまいます。すなわち、逆風のときに必要なリーダーは、何度も失敗して打たれ強くなっているリーダーです。そして、それを自分の責任でやり抜こうとする人です。そういうリーダーとなる人材は、会社の業績が順調なときは、あまり必要性を感じないかもしれません。
でも、現在はVUCAの時代であり、経営環境の先行きが不透明な中で、もし、自社が危機状態になったとき、社内での調整がうまい人が、そこから会社を引っ張って突破させることができるとは考えにくいでしょう。危機の状態にあるときは、調整力より実行力だからです。そして、「失敗は人を成長させる」という言葉があるとおり、このことは、私が述べるまでもなく、多くの方がご存知です。そうであれば、「自分の頭で考え、自分の判断基準で決め、自分の行動原則に基づいて実行」する部下」を疎んじてはならず、逆に歓迎して背中を押さなければなりません。
私は、ときどき、経営者の方や幹部の方から、「自分は部下に恵まれない」という不満をきくことがあります。でも、本当に恵まれていないとしたら、その原因の一端は、自分自身にもあると考えなければならないと、私は考えています。特に、経営者の方は、経営のバトンタッチができるような次の経営者を育成するという重要な役割があります。もし、VUCAの時代に、バトンタッチする経営者に、調整型の人材を育成し選んでしまうとしたら、その会社は長く続かないのではないでしょうか?
2024/8/12 No.2798